2010年12月07日

わかるってこと?

浜松で、バラシを手伝った後
浜松で芝居をしている友人に会う。
彼の悩みは先日の自分たちの芝居が「わからない」と言われたこと。

私もその芝居を観たのですが
「わからない」わけじゃない。
ストーリーもちゃんとあり、回想シーンもわかりやすい(わかりやすすぎる)。

「わからない」の原因は
「で、結局犯人はどっちなの?」
という問いに対する答えが無かったってことだろう。

でも、それってはっきりさせるべきなのかなぁ?
と、私は思う。
だからと言って
「それは皆さんそれぞれが感じたとおりで」
という、よく使う手でお茶を濁す必要もないだろうが。


その芝居は、兄弟の話である。
観ている人の立場によって、どちらかの人物に自分をより投影させたりするんじゃないか?
私個人は三人兄弟の長男なので、当然のように
「全く弟に会いに来なかった兄」
に自分を重ねてしまった。
となると、
「どっちが犯人か?」
という問いに対して
「もし自分が犯人だったら、弟にどうしてもらいたいか?」
「もし妻子のある弟が犯人だったら、独り者の自分は彼の身代わりになるだろうか?」
という兄の視点でいつの間にか観てしまっていた。

それでよいと思う。
どっちが犯人か?
なんて、この際大きな問題ではない。
むしろ、どちらが犯人かはっきりさせてしまったら
先の自分の視点は一つに絞られてしまい、つまらない。(いや、一点に深く入り込めて、それはそれで面白いのかもしれん)


芝居を
「わかる」
「わからない」
で区別する必要はないのではないか?と昔から思う。

私は絵画が
「よくわからない」
です。
でも、一枚の絵や写真や造形物に、足を止めてしまったりします。
よくわかりませんが。
「理解すべき頭」ではなく
「感じるべき感性」で観ているんじゃないか?
感性が足を止めさせるんじゃないか?
(感性って言葉の使い方も今ひとつわかりませんが)

しかし、何故か芝居は
「理解できたかどうか」
を問われることが多い。

いいじゃないか
「何故かあの役者の仕草がずっと気になった」
「何故か刹那くなって涙がこぼれた」
「何故か母に会いたくなった」
「何故か二年前に告白した夜のことを思い出した」
で。

自分の芝居は「わかりやすい」とよく言われる。
でも、本当は
「芝居観終わって何日か経ったときに『あ、あれってそういうことだったのか!』と気づいて鳥肌立った」
「今、この立場に立って、5年前の芝居を思い出した」
「4年前には気づかなかったけど、再演見たら気づいた。自分も変わったんだなって思った」
っていう感想をいただいた時に
「してやったり」
と思うのです。

そんな時限爆弾のようなものを仕込みながら次回の舞台も創っていこうな、と思う。

で、その友人に言いたかったのは
「わかりやすい芝居を創んないとダメだ」
なんて思わなくていい。
自分が好きな芝居を追及していけば。
好きな芝居じゃなきゃ続けていけないから。
お客の要求に合わせた芝居作ったって、別のお客がまた自分の好みで要求してくる。それをいちいち聞いていたらキリがないし、聞いているのに文句言われちゃやってられない。
だったら、好きな芝居を創っていたほうが良い。どうせ文句言われるなら、その方が割り切れる。割り切れたほうが続けられる。続けられれば、もう少し良いものも創れる。
そういうことじゃないだろうか。

そしてそれは自分にも当てはまる。
多分、他の人たちにも。  


Posted by 伽藍座長 at 02:24Comments(0)日記